まさかという坂
 

■ 2004年夏に起こったまさか#3

その後、叔父と私は疎遠になるのだが、また再会の時が来た。
それは不思議な再会ののち約2年後、彼の実母(私の祖母)が、不慮の事故で亡くなることによるものだった。
叔父と私にとって、あまりにも悲しい場での再会だった。
おばあちゃん子であった私には悲しい出来事だったが、叔父にとってはもの心ついて間もない頃に自分たちを残していなくなった母親である。
叔父の幼少の頃の記憶にしかなく、人生のほとんどを義母と過ごしてきたのだから。
しかし、叔父は実母の亡骸から離れようとはしなかった。
そして叔父は葬儀のあいだ男泣きに泣いた。
叔父は彼なりに義母に気を使ってか、実母がそれを望まなかったのか、実母と会っていなかったようだが、彼のなかでは間違いなく彼を生んだ母親だった。
この頃から私の母(叔父の姉)とは、よく連絡を取るようになっていた。
私も祖母の法要で彼とちょくちょく再会していたし、私の妹が転勤で叔父の近くに引っ越したときなどよく世話になったようである。

祖母の突然の死から立ち直り、叔父の存在も忘れていた頃のことだった。
私の母から連絡が入った。
叔父が肝臓に悪性の腫瘍がみつかり入院したと奥さんから連絡が入ったから、お見舞いに行こうとのとこだった。
叔父の運命が大きく動いた2004年の春のことである。
私たち家族みんなで叔父のお見舞いに行った。
病院のベットで見た叔父は、約一年ぶりの再会の私には痩せこけた様に見えた。
物言わぬ臓器、肝臓がガンに冒されていたのだ。
もちろん告知制度により叔父も知っていたし、手術をすれば大丈夫だと叔父の家族も言っていた。
叔父には掛かりつけの医者がおり、1年に2度健康診断をしていて、ガンが見つかる前年の暮れにも健康診断をしていて、血圧が高いこと、十二指腸に潰瘍があって薬による治療をしていたこと以外は健康な状態だったらしい。
手術を決断するまでに叔父と家族たちは、噂に名高い病院、治療院などを訪れ、間違いであることを祈るように遠く別の都市まで足を伸ばし診察を受けたようである。
お見舞いの時、口をすっぱく言われたのが、就職が決まったばかりの叔父の一人娘への口止めだった。
手術後によくなって実はこうだったんだよと話したいといっていた。
私たちも手術後よくなって会うことを約束し帰宅の途についた。
帰宅途中私たち家族は、娘さんには話しておくべきじゃないだろうかと話していたものだ。
彼女には当然知る権利があると思ったからだ。

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